takabailandoのブログ

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東日本大震災からもう3年弱で思うこと

先日南相馬市桜井市長が都心で細川東京都知事候補の応援演説をしてました。細川候補の賛否ではなく、その時桜井市長の演説に表現できないほどぐっときたと同時に、3年前の混沌とした状態を鮮明に思い出しました。東京にいるとわからない当たり前に使っているこのエネルギーにまつわる現状、そのエネルギーが枯渇するはずがないという前提にたった経済体制、そもそもを考え直すことができるのはやはり首都東京なんだろうと思います。東京オリンピックも控え、今日本が世界に示すべき姿勢を見誤らないように今を考える必要があるのです。

 私の地元は石川県鹿島郡中能登町というかなり小さい田舎町。山の沢にはサンショウウオや沢ガニも多く、石動山にある池には鮒や鯉のつりも楽しめる自然豊かな町です(ただしここ十年くらいブラックバスブルーギルが日本固有種の数を激減させてます)。幼少の頃から爺ちゃんにくっついて農業・林業の手伝いをし、今でも自分で山仕事をこなすこともあります。自然豊かなこの町が今の自分を育んでくれたことに感謝すると共に、この自然が生きる権利を尊重したいと思って留学した契機にもなっています。

 志賀原発といえば、私が学生だったころ実家には町役場から緊急避難用ニュース配信端末が送られてきた日を鮮明に覚えています。その当時自分は「なんでこんなもん必要なんやろ?」とくらいしか考えておらず、事の重大性にも気づいていませんでした。そのスピーカー端末から毎日午後5時くらいに流れる町のニュースは日常にとけ込みごくごく普通に流れてました。でも、たまに「本日志賀原発の・・・」というニュースも流れます。「ま、重大な臨海事故が起きてから行動しても手遅れだわね」というなにか言葉にはできない不安、と「原発は安心だっていうから問題ないだろ」という神話を信じる町人が大部分だったのです。私の町は”邑知(おうち)潟断層”の真上に存在し、志賀原発からは20km圏内。この神話もどこまで確かなものか町人はその当時原発の怖さを”知って”いても”理解”はしていなかったのではないかと思います。

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 私自身は、米国の大学院で環境政策・都市計画を勉強していた時に、自然を搾取することで起きうる様々な社会問題をどう解決すべきか頭を巡らそうかと思った数日後に9/11同時多発テロが発生し、日本を出ると変化のスケール感の違いを再認識されました。

 8年越しの留学から帰国して数年間経営戦略コンサルタントをしていました。普通に出社してインドと電話会議をしていた2011年3月11日午後2時46分、地震に慣れている日本人が体験したこともないような揺れを感じました。高層ビルの22Fにいましたから、その揺れは半端無く、時化の大海原を航海する漁船のように、ビル全体がギシギシいって横揺れを始め、フロアー全体から悲鳴が響き渡っていたのを覚えています。

 家族の安否はとれたのですが、テレビからは信じがたく目を覆いたくなるような光景が映し出され、何かアメリカで目の当たりにした同時多発テロと同じくらいの衝撃を受けました。私の中で「なんとかせんといかん」と思った瞬間でしたし、「こりゃ仕事辞めて東北いかんといかん」と瞬時の決断した瞬間でもありました。実際、家族には心配かけたと思いますが、すぐ会社をやめ、登山家・山岳部など基本自然の中での生活に慣れている人が集まったRQという団体のボランティアに参加して、「まずは現場でできること」に集中しました。

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 当時震災ボランティアの大多数は石巻市に集中していて、気仙沼、南三陸大船渡といった宮城北部・岩手はボランティアが圧倒的に不足していました。私は登米市に拠点を置くRQで、気仙沼北部の唐桑半島で瓦礫の撤去作業(上写真は震災後2週間の風景)、志津川町で経済開発プロジェクト、登米市では避難所の物資サポートを担当しました。

 首都圏での報道では瓦礫撤去と簡単に人はいってましたが、私達は瓦礫という言葉を使いませんでした。というか、使えませんでした。一つ一つがそれは被災者の方の思い出であり、祖末には扱えない。なので瓦礫撤去ではなく、思い出物探し・生活支援に近いマインドで活動していました。思い出探し作業をしていると、1時間に1回の頻度で津波注意警報がなり一時避難し、作業再開、その繰り返しでした。

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 今回の桜井市長が何を言いたいのか、我々がどう行動すべきなのか、被災現場を知る人は理解できるのではないでしょうか。被災現場には死体が確認されたことを示す赤旗が付けられた棒がいくつも刺さっていたり、放棄された車の外部には○×で人命救助の模様が今での目に浮かびます。原発事故を経験されてる方々はこれ以上に大変な経験をされているに違いないのです。

 震災が起きて3年経って我々は何を変えたんでしょう。あの震災時の経験をどう活かしていけば自分の子供や孫にまで安心を送り届けることができるのでしょう。必要は発明の母というように、必要ならばなにかしらイノベーションが起きると信じて、脱原発はやるべき施策だと思います。地元の自然も護りたいですし、二度と震災による原発事故で苦しむ人を見たくありません。政府に頼むのではなく、国民が国の将来を決めるチャンスだと思って今回の都知事選は考えて行きたいなと思います。